土 葬 の 会
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皆様へ
土葬の会の会報を発行し始めてから、年に2回の発行で20号目をお届けすることなりました。
2001年に会が発足してから、2008年にホームページを開設し、会員制度を設け17年が経過し会員も50数名となりました。
これまでの経過から入会される方と死亡および退会によって増減はありますが順調に入会される方が増えております。
土葬の会のホームページ閲覧者数は毎月平均600人います。
リピータは13%平均で78人ですから他の520人ほどが興味を持ってホームページを見ていることになりますね。この結果からも潜在的な土葬への関心や会員希望者がおられることが伺われます。
なお、ホームページの内容充実のためにみなさんからのアイデアがあればお寄せください。
7月4日
土葬の会会報をお送りいただきまして、有難うございました。
ところで、会報を読ませていただきましたところ、風の丘霊園での新たな埋葬受け入れは困難となりましたとありますが、そうすると、残るは、土葬の会で提携されていて受け入れていただける所としては、茨城県常総市朱雀の郷、山梨県山梨市神道霊園、北海道余市郡よいち霊園ということになるのでしょうか。
できれば、愛知県又は大阪府で土葬を受け入れていただける墓地がないか、昨年9月に土葬の会へ入会させていただいてから探しておりました。
まず、愛知県庁へ電話してお聞きしたところ、愛知県統計年報に埋葬、火葬の実績が書かれていることを教えられ、実績のある市町村へ電話しましたが、土葬の実績の記載間違いとか、幼児埋葬で特殊事例とかで、役所で把握している数字からは土葬を受け入れている事例はほとんどありませんでした。やむなく、愛知県東海市及び山間部の2つの市町村から墓地台帳を取り寄せ、今迄に管理者たる寺等へ100件近く電話をしましたが、土葬を受け入れるという墓地はありませんでした。大阪府は、一部の山間部の市町村へ電話した限りですが、やはり、土葬を受け入れている墓地は聞いたことがないという返事でした。
愛知県、大阪府では土葬を受け入れていただける墓地を見つけるのは困難と思われ、土葬の会で提携されている墓地で区画を確保するよりないのではないかと現在は思っております。
武 田 保 夫
武田さんへ
ご連絡及びご報告ありがとうございました。
土葬のできる情報はほとんど自治体や葬儀会社は把握しておらず山間地の不便な地域に限られているようです。それでも奈良県や和歌山県では一部できるところがあるようですから今後も地道な情報収集が必要ですね。
特に関西方面からの問い合わせがありますからそちら方面が見つかることを願っています。反対に東北方面からは問い合わせはほとんどありません。
山梨ではまだ2箇所のお寺の可能性がありますから今後も交渉します。
山野井
7月5日
ご無沙汰しております。兵庫県の徳原節夫です。私の意見を掲載して頂きありがとうございます。個人墓地の件、要約すると20平米以下で民家から300メートル以上で一般墓地の申請の小型版といったところだったと思います。津山市のホームページに載っていたと思います。
埋葬の件ですが、カトリーナ。スペードの同志のケイトリン。ドーテイが言っていましたが、エバーミングというのか、死に化粧でホルムアルデヒドを注入するそうですが、大変な発がん性物質でそれで埋葬する事は、例えればPCBを棺桶に入れて地中に埋めるような行為で大地を汚す事になり、環境に悪く、火葬よりもたちが悪いらしいです。
土葬の将来性ですが、温暖化防止の機運が高まっているようで、火葬も見直される方向に向かうのでは、風向きが変わっていくのではと、考えます。土葬が増えれば本望です。
9月7日
会員の宮沢さんがかねてより予約をしていた風の丘霊園において石棺の設置と墓石の設置のための工事に立ち会うために来られました。
まず穴を掘り、石棺を設置するための基礎を打ちます。コンクリートが固まるまでの雨よけのために木枠を掛けてこのあとブルーシートをかけて保全です。
また、ちょうどこの日は大阪の中嶋さんが風の丘霊園では次の土葬受け入れが制限されておりまして、やむなく朱雀の郷において埋葬が執り行われました。
9月8日
土葬の会の皆様。
本日(7日)茨城県常総市朱雀の郷で土葬として埋葬してきました。誠にありがとうございました。
「遺体を焼かれたくない」、「火葬は遺体を取り違えられる可能性がある」、「火葬は肉体がわずか数時間で骨になってしまう」、「火葬の骨は余りにボロボロ」、「火葬は骨を全部骨壺に入れない」、「世界的には(土葬より)火葬は少ない」、などの理由で火葬に私は否定的でした。
「土葬は遺体を焼かれない」、「土葬は遺体を取り違えられたりはない」、「土葬は肉体がじっくり年数をかけて骨になる」、「土葬だと骨はボロボロにはならない」、「土葬は肉体全部を埋葬できる」、「世界的には(火葬より)土葬が多い」、などでずっと土葬を希望してきました。
今回、家族を土葬で埋葬できて誠に感謝しています。
誠にありがとうございました。 大阪 中嶋
9月13日
今日は宮沢さんの石棺を設置します。そしてその後で入棺体験を予定しています。まず石棺を設置しまして、いよいよお楽しみの入棺体験です。死んでからは体験できないのでこの機会に入って空を見上げて写真を撮って、死んだ後のことを考えられたようです。この後に、もう一つの石棺を設置し、2重石棺となります。
9月15日
小雨交じり、富士川町の山里において土葬の会の懇親会を開催しました。
前もって町内に宿泊された方や、当日は電車でおいでになった方をそれぞれ駅に出迎えました。
今回は初参加の方は増渕さんの奥様お一人でしたが、11名が集まりました。例年は知人に食事の用意を手伝っていただいていましたが都合がつかないことから、今回はお弁当を頼んで昼食となりました。
話題としまして、自分が亡くなった時は火葬にされる恐れがあるので、どこかにあらかじめ頼んでおいて、代金の支払いや遺体を引き取りに来てもらいそして土葬にしてくれるようにできないだろうか?
この場合は仮に土葬の会で一括して引き受ける体制をとることは考えられますが、やはり大切なのは親族の誰かが確実に土葬の会へ連絡をしてもらえることが保証されなければなりません。
個人や企業などから寄付をした場合は税金がどうなるのか?
受ける側が公益法人でなければ寄付行為側に対する節税はできない。
今後の組織を拡大するにはどうすれば良いか、新聞や雑誌で広告を出すか、また記事として取り上げてもらえたらいいのではないか。
会員制度や会費の見直し、東京での会合など話題となりましたが、当面はホームページなどの充実を図るなどが望まれます。
情報としまして、近年行われている終活の一つとして入棺体験が行われておりその記事などを紹介、用意された棺に体験者が横たわり、蓋が閉じられ、そして送辞が読み上がられると今度はお坊さんが経を唱えます。この間、体験者は棺の中で死後の自分がどのようになるのかを確認するわけです。そして蓋が開けられ外に出ます。また、ちょうど宮沢さんが風の丘霊園で石棺を設置し、そこで入棺体験をされましたのでその画像を紹介しました。
こうして無事懇親会を終えることになりましたが、後で考えると入棺体験で欠けていることがあると気づきました。それは棺に入って一連の葬儀が終わったあとの焼却炉の扉が開いて中に入れられガッシャと扉が閉じられそしてゴーッと炎の音が聴けるようにすべきではないのか?との思いです。これって悪趣味ですか?実際火葬を嫌う人は焼却炉で焼かれるのを覗いたり状況を聞いている人がいることで火葬への恐れを感じるのです。
10月5日
今日は宮沢さんの墓石への液体ガラスコーティングの作業を行うことになり、長野県安曇野市にある風の丘霊園管理会社である黒岩石材さんの工場に行きました。田園風景の中にあるご自宅と向いに工場があります。
黒岩さんのご趣味は鯉を飼うことだそうで、山梨での仕事の合間に石和にある鯉の市場に行くのが楽しみだそうです。
宮沢さんとは黒岩さんの奥様がバス停まで迎えに行って現地での集合となりました。
かねてより宮沢さんは墓石を長持ちさせたいとの意向がありました。また私、山野井は木材でドームハウスを造りたいと考えていまして、その外壁塗料を液体ガラスに期待し扱っていますので、木材、金属、石に施工することによって雨や太陽光などからの耐候を高めるという塗料です。しかも墓石には日本で初めての施工となりました。
昼食には信濃といえばソバを、という宮沢さんの提案で黒岩さんご夫婦、山野井涼子、それに施工仲間の赤池さんと行きますと、驚いたことに黒岩さんはソバを前に正座し、ソバつゆに麺を半分だけつけそしてズズーと一気に吸い込むのです。風貌はまるで戦国時代の野武士か武将を彷彿とさせる風貌と気迫でリズム感のある食べっぷりと、しかも速いのです。これには同席した一同は驚くやら感心しきりでした。
10月26日
いよいよ本日は宮沢さんの墓石が完成です。
何年も前から計画され綿密な打ち合わせの末、こうして土葬の会の会員として初めて立派なお墓を作られました。
東京は新宿バスタから高速バスで中央道を走りますと、ちょうどお寺のそばにバス停があり、そこから徒歩により数分でお寺に着きます。このような利便性もあって足繁く墓地に通われました。異例なのは石棺とともにこうして墓石(虹)を作られ、そして管理費年6,000円を100年分前納し、記念の文字も刻印されました。
自分が亡くなった後もお寺さんに迷惑をかけないようにとの思いと、永らくこの地に留まりたいとの願いを込めての万全なお墓作りでした。
会員の山野井涼子とともに見学させていただきました。
風の丘霊園を訪れることがありましたら是非ご覧ください。
11月16日
集英社学芸編集部の武田と申します。
会報を、とお願いいたしましたが、サイトの方にアップされておりましたのでご送付いただかずとも大丈夫でございました。
「青春と読書」(小社の宣伝小冊子です)で連載中の椎名誠さんのエッセイは「椎名誠のエンディングノート」というものです。
ご自身の仕舞い方も考えにいれながら死についてのいったりきたりのルポとなっています。お伝えしたとおり、山梨のイスラム墓地などにも行ってみたいものだ、という話が出ておりましてもし山梨の方に取材に向かうことになりましたら山野井会長にご相談させていただきたく存じます。
12月22日
三重県の葬儀社から問い合わせがありました。以前、風の丘霊園に埋葬のために来たことがあり、その後の受け入れ状況を知りたいとのことでした。
12月27日
すでに皆様ご存知でしょうが土葬の会の発足のきっかけは土葬の意義を知ったことからでした。それを教えていただいた“ビリー”氏をご紹介いたします。興味を持たれるなら皆様にとっても特別な人物となることでしょう。
ビリー・マイヤー("Billy" Eduard Albert Meier/エドゥアルト・アルベルト・マイヤー、1937年2月3日生まれ )は、UFOとその乗員とコンタクトをしたと報じられ1975年にわずか3ヶ月で全世界に知られるようになった。
彼は1000枚以上のUFO写真を撮った。また、彼は十数巻のコンタクト記録を含む45冊以上の本、多数の冊子の執筆者である。
【写真】「ビリー」・エドゥアルト・アルベルト・マイヤー、FIGU の創立者
1.おいたち
エドゥアルト・アルベルト・マイヤーは、1937年2月3日、スイスのビューラッハ州において7人兄弟の第2子として生まれた。彼の父は靴職人であった。1942年6月2日、5歳だったエドゥアルトは父とともに初めてUFOの目撃を体験した。それは巨大で銀色の「円盤」であった。
1942年の秋、小さなエドゥアルト・マイヤーにとって最初の、ある地球外生命とのテレパシーによる接触を体験した。
同年の11月、彼は初めて、宇宙から来訪したスファートという地球外生命が操縦する地球外の飛行体で遠く旅をした。スファートは非常に年老いた白人の男性であり、 プレヤデス/プレヤール という星座から来訪した。
1953年2月3日から11年間、ダル宇宙 出身のアスケットという宇宙人女性から教育を受けた。アスケットの導きのもとで、彼は我々の地球上を広く、43ヶ国を旅した。その間、アスケットから(ギザの)ピラミッドに関する秘密を教えられ、アスケットに導かれて、実際にその場所を見て確かめた。アスケットはその上、エドゥアルト・マイヤーを連れて14世紀のフランスや2000年前のイマヌエル の時代への旅行も可能にした。
1965年8月3日、 彼はトルコのイスケンデルンでバス事故に遭遇し、左腕を失った。
1965年12月25日、ギリシャのテッサロニキにおいてある女性と出会い、 2か月後に結婚した。 1967年2月から1969年7月までの間、トルコ、パキスタン、インドを歴訪し、暮らした。1967年、クェッタにおいて⻑女が生まれ、スイスへ帰国後、長男 (1970年)と次男(1973年)が生まれた。
エドゥアルト・マイヤーは1975年1月28日、プレヤデス/プレヤールから来訪したセムヤーゼという女性とコンタクトを開始し、その内容を公開することを開始した。 この頃、彼が撮ったUFO写真やUFOの8ミリフィルムにより、彼は広く世界に知られるようになった。
エドゥアルト・マイヤーは1978年6月17日、スイス民法60条にもとずくFIGU(フィグ)という公益法人を友人たちと設立した。彼はその中の一員として今日まで執筆活動を続けている。
彼の遍歴についての詳細は、『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録』、『瞑想入門』の中に書かれている。
現在、彼はビリー・エドゥアルト・アルベルト・マイヤー(BEAM)通称“ビリー”と呼ばれる。
ビリー・マイヤーは日本ではUFO関係の雑誌や単行本で紹介された。 また、UFOの写真や8ミリフィルムは1981年に日本テレビの木曜スペシャルで詳しく紹介された。その後、ビリー・マイヤーの著作は日本で個人的な翻訳がなされたが、1991年からはFIGU-JAPAN(フィグ・ヤーパン)により、2012年からはFIGU-LANDES-GRUPPE-JAPAN(フィグ・ランデス・クルッペ・ヤーパン)により、FIGUの正式許可の下で翻訳出版されている。ビリー・マイヤーの著作物はFIGUによって厳しく管理されており、その写真や文章などの引用はFIGUの許可をとって行う必要がある。日本においてはフィグ・ランデス・クルッペ・ヤーパンの許可が必要である。
彼の著書は一般書店で販売されておらず通信販売により、FLJ フイグ・ランディスグルッペ・ヤーパンから入手することができる。 http://jp.figu.org/index.html
2 活動
1975年の地球外のセムヤーゼという女性とコンタクトを開始した頃より、ビリー・エドゥアルト・マイヤーは地球外生命の協力によって、非常に多くのUFO写真やUFOの8ミリフィルムを撮って公表した。また、UFOに使用される精製過程の金属片なども公表した。これらは世界的に物議を巻き起こした。
これらの写真やフィルムや金属は当時のNASAの科学者や著名な金属学者によって分析され、偽物と証明するものは何一つないと報告される一方で、いくつかのUFO団体やUFO関係者から否定論が主張された。
彼の多くの写真や8ミリフィルムは、主に1975年からの1、2年に集中している。その後、写真やフィルムやそれに関する議論が独り歩きし、彼の活動は一般にあまり知られていない。
しかし、エドゥアルト・マイヤーの主な活動は膨大な執筆活動である。エドゥアルト・マイヤーは多数のコンタクト記録を公表し続け、1975年1月28日以来、 2010年12月中旬の今日に至るまで、ビリー・マイヤーは 2000回を超える直接のコンタクト、テレパシーによる通信を行っている。その中に、多くの地球外生命との公式とされるコンタクトは519回あり、それが『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録』という本(原書 500ページ、A4 サイズ) が公開され続けている。その他、様々な単行本を執筆した。内容は宇宙や自然、生まれ変わりや生と死、人間の精神的な内容、災害や戦争、社会問題、歴史、未来への予言 、その他多岐にわたる。
この地球外の人間とのコンタクトは、ビリー・マイヤーにとって、いわば生涯の仕事になっている。
FIGUは、ビリー・マイヤーのミッションについて 、彼の関心は、幼少時から続いており、それは自然やあらゆる創造的なものについて、そして深遠な哲学的なものについてであったこと、そしてその創造的なもの自体が彼にとって特別な価値であり、彼の思考の大部分を占めていたこと、そして彼のミッションは、 「霊の教え」「意識の教え」「創造・自然の法則と掟」や「進化の教え」であり、それらを人々に啓蒙することであると説明している。